朝のお散歩。 ふと見つけた廟のゲートの向こうに見える市場に足を踏み入れてみました。

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門に気を取られて気づかなかったが、ここは鴨母寮市場だった。ここなら何度も来たことがある市場でした。

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朝ご飯は、ここにした。掲げてある横断幕が面白い。「祝、開店半年になるのに、各テレビ局の取材がまだ来ない」

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好物の豆乳と油条を食べる。ここのは今一でした。そりゃテレビ局は取材にこないよ。 

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朝飯第二弾は、マルやん一押しのお店へ。

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肉チマキは売切れだったので、野菜ちまき。ピーナッツがゴッソリと入っている。美味しい。

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ちまきにみそ汁は台南のチマキ屋さんの鉄板メニュー。 日本のように油揚げが浮かぶのではなく、油条を刻んだものが入っている。これはこれでみそ汁が浸みて美味しい。

マルやんが教えてくれる店の基準もそうだが地元の人は、「 安くて、ボリュームあって、旨くて、親切」と考えているような気がする。店の外見は綺麗に越したことはないが、日本よりは優先順位が低そうだ。

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台湾はスクーター天国。よってヘルメットも凄い。

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国華街の凄い行列のできるお店。

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50のお店にも入っている「邱家小卷米粉」ですが、食べたことがあるお店なので、今回はパス。

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国華街に来た目的は、ここなんです。50のお店の一つ、「佛都愛玉」。

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オガクズの様な木の実?から作られるゼラチンのような愛玉。冷たくて美味しい。日本でも普及しても良さそうな美味しさです。

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おっ、ここのお店は面白い。

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外の食べ物の持ち込み歓迎ですって!

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孔子廟の付近まで来ました。

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廟がありました。ここは初めてかな。

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孔子廟付近に来た目的はここ。50のお店の、「永記虱目魚丸」

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おっ、良い感じじゃないですか。

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あああ、値段は悪い感じ。魚丸湯が70元だって! ルーロウ飯25元と合わせて95元。食べ歩きを続けているうちに、私の感覚が地元民に少し近づいてきたようだ。

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お店の看板の魚丸湯でしたが、特に特別な味であるわけでは無い・・・・

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ルーロウ飯は美味しいが、多くの店で私は同じコメントを書いているような気がする。

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秋葉原?

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オーディオ機器のお店なのかなあ?

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もう一丁、50のお店の「兩角銀冬瓜茶」

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冬瓜茶は、もう1軒有名なお店があり、何時もそちらでばかり買っていたので、ここは初めてでした。甘いばかりの印象でしたが、ここのは良い感じでした。甘いだけでなく、表現が難しいですがトウモロコシ茶のような香ばしさもあり、これならまた飲みたいですね。

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冬瓜茶屋さんは、大天后宮の目の前にあった。私が30年前に台南で一番初めに見た廟のうちの一つで、今までに一番多く来た廟だと思う。

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ここの媽祖は特別大きい。また黒ではなくて金色。

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大天后宮のお隣さん、武廟の壁。
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この後、宿に戻りゴロゴロしていると夜になった。いよいよマルやんの講演会です。

会場に少し早めに向かう。マルやん曰く、「まだ開園まで時間があるから、晩ご飯でも食べてきなさい」

近くの水仙宮市場の近くのお店でササッと食べる。

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広東式のBBQのお店で、メインの肉は色んなものを楽しめる店なのですが、夜になると売り切れて選択肢はほとんどなかった。それでも安くて旨い。

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いよいよ講演会が始まりました。

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台南は日本人の間で人気が急上昇しているだけでなく、台湾人にも大人気です。町には古い町並みが多く残っており、綺麗にリノベーションされ観光客に大人気です。

但し、それらの路地は既に本来の意味は無くなってしまいお店ばかりの遊園地みたいなものに変化してしまっています。そんな時代でも、信義街は人が住み、昔の石造りの城門も、歴史建造物として展示されているわけでは無く、今でも門として活用されている台南でも唯一の場所です。マルやんは、その古い町で生まれ育ち、何でも知っている生き字引のような人物です。

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今回の講演のテーマは、100年以上前の日本の文学者、佐藤春夫が描いた作品の舞台がテーマです。

私は佐藤春夫と言えば、「芥川賞の受賞を太宰治が懇願した相手」というエピソードを知るだけで、著作は読んだことが無かったので、少し調べてみました。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E6%98%A5%E5%A4%AB

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それにしても、日本の著名文学者とマルやんが何故つながるのか少し不思議ですよね。佐藤春夫は大正の時代に、当時日本の植民地であった台湾の台南を旅した経験を元に日本で小説を発表しており、それを研究している研究者が日本にも台湾にもいます。

日本の研究者が台南を訪れ、小説に登場する場所や人物を調査する際に、たまたまマルやんに道を尋ねたことから、マルやんが調査に協力するきっかけとなったそうです。

また地元の大学生が信義街を題材に調査する際にも色々とアドバイスしてあげたそうで、結果大学生達の発表はコンクールで賞も受賞したそうです。今回のマルやんの発表で一緒に発表した女性は、その時の学生であり、今は大学を卒業して助手をしている方でした。

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佐藤春夫の小説をネットで少し検索してみました。興味深い記事を見つけたので、少し長くなりますが、以下でご紹介しておきます。私も小説を読んでみたくなってきましたので、帰国後に本を探したい。

http://motto-taiwan.com/2015/05/0514/

 1920年の夏、佐藤春夫は台湾を訪れた。当時、佐藤は『田園の憂鬱』を発表して新進作家として文名をあげつつある一方、同棲相手の不倫や谷崎潤一郎夫人への思慕など女性関係のこじれから神経衰弱の状態にあり、そうした煩悶から逃避するかのような台湾行きであった。高雄で歯科医を開業していた同郷の友人・東熙市〔ひがし・きいち〕の家に二ヶ月半ほど滞在、それから台北へ行き、東の紹介で知遇を得た民族学者・森丑之助〔もり・うしのすけ〕の世話になる。この間、台湾各地を旅したほか、対岸の福建へも渡航した。日本へ帰国後、台湾・福建旅行時の見聞をもとにいくつか作品を発表している(ただし入手が不便なので、佐藤の台湾作品で一冊のアンソロジーが編まれることを期待したい)。

 日本人作家が台湾を題材として生み出した文学作品のうち、最も有名なのは佐藤春夫が1925年に発表した「女誡扇綺譚」であろう(『怪奇探偵小説名作選4 佐藤春夫集──夢を築く人々』ちくま文庫、2002年、所収)。舞台は台湾南部の古都・台南。語り手となる主人公は台南の新聞社に勤める日本人で、その性格は佐藤自身を模している。鬱屈の日々を送っているが、意気投合した台湾人の友人・世外民に誘われて安平を訪れた帰途、気まぐれで禿頭港〔クッタウカン〕あたりを散策していたら、廃墟と化した豪邸を見かけた。好奇心にかられて中に入ってみると、誰もいないはずなのに女の声がする。実はこの豪邸の持ち主一族が没落した後も、一人娘が婚約者の来るのを花嫁姿で待ち続けながら世を去ったのだという。あの声は幽霊だったのか、それとも何か別の事情が秘められているのか──二人は真相を調べ始める。

「人はよく荒廃の美を説く。又その概念だけなら私にもある。しかし私はまだそれを痛切に実感した事はなかった。安平へ行ってみて私はやっとそれが判りかかったような気がした」──「女誡扇綺譚」の一節である。日本文学史の脈絡でこの作品を捉えるとき、例えば川本三郎『大正幻影』(岩波現代文庫、2008年)はこうした「荒廃の美」への志向に注目している。大東和重『台南文学──日本統治期台湾・台南の日本人作家群像』(関西学院大学出版会、2015年)は「佐藤が一九一〇年代に傾倒した荷風文学や、荷風が創作の上で大きな影響を受けたローデンバック『死都ブリュージュ』などの、廃墟としての都市を主題とする文学の影響」を指摘する。他方、比較文学者の島田謹二が「異国情緒の文学」の傑作と評して以降、この定評が継承されてきた問題については藤井省三『台湾文学この百年』(東方書店、1998年)を参照されたい。島田謹二については橋本恭子『『華麗島文学志』とその時代──比較文学者島田謹二の台湾体験』(三元社、2012年)に詳しい。

文学方面には門外漢の私が敢えて「女誡扇綺譚」という文学作品を取り上げるのは軽率のそしりを免れないだろうが、後述するように台南に軸足を置いて歴史や民俗に関心を寄せた学者たちも何らかの形で「女誡扇綺譚」を意識していた。そうである以上、台湾史を考えるという趣旨からも無視はできない。台湾文学史については「もっと台湾」で連載中の赤松美和子「ハイブリッド台湾文学」をご覧いただきたい。

 「女誡扇綺譚」のストーリーには想像力でふくらまされた部分が大きいが、作品中の風景描写は佐藤自身が目にしたものをもとにしている。ただし、台南の土地勘がないとどのあたりが舞台となっているのか分かりづらいだろう。さらっと読み流すと「幽霊」の出た廃屋は安平にあるかのように勘違いしてしまうが、実際には台南の市街地と安平との間にはだいぶ距離があり、件の廃屋は台南の市街地の西のはずれに位置する。また、佐藤は安平で赤崁楼を訪れたと記しているが、安平にあるのはゼーランディア城(安平古堡)で、赤崁楼は台南市街地にあるプロヴィンティア城を指す。

台南市街地の西のはずれにはかつて港の役割を果たした水路が張り巡らされており、主だったものが5本あったことから五條港という。禿頭港はその一つで、観光スポットとして有名な神農街のあたりである。ただし、佐藤が実際に訪れた廃屋は禿頭港の北側にある別の水路、新港〔シンカンケン〕に沿った地点にあり、現在の信義街に近い。

 1930年代、台南の学校で教鞭を執っていた前嶋信次 や新垣宏一 がすでに「女誡扇綺譚」の舞台を探し出していたが、その時点から考えても80年以上の月日が経過しており、街並みは大きく変化している。私が廃屋の場所を探すにあたり、河野龍也「消えない足あとを求めて──台南酔仙閣の佐藤春夫」(『実践国文学』第80号、201110月)を参考にしたが、具体的な場所を確認するにあたっては一青妙『私の台南』(新潮社、2014年)に登場するビンロウ売りの楊さんに助けていただいた。件の廃屋、実は楊さんのお店のすぐ裏手にあったのだ。


日本統治期において行政や産業の中心として日本人居住率の高かった台北や高雄とは異なり、台南は圧倒的に台湾人の街であった。領台以前からの伝統的な生活光景がそこかしこに見られ、ここで暮らし始めたら否応なく「台湾らしさ」と向き合わざるを得ない。大東和重『台南文学──日本統治期台湾・台南の日本人作家群像』(関西学院大学出版会、2015年)は、そうした日本統治期の台南と密接な関係を持ち、日本語を用いた文学活動を行った6人の日本人について論じている。佐藤春夫、前嶋信次〔まえじま・しんじ〕、國分直一〔こくぶ・なおいち〕、庄司総一〔しょうじ・そういち〕、西川満〔にしかわ・みつる〕、新垣宏一〔にいがき・こういち〕──厳密には「作家」とは言い難い人物も含まれているが、広く文学に関わる活動をしたという意味で取り上げられている。

前嶋信次といえばイスラム史や東西交渉史の泰斗として知られる。彼と台南の関係は意外に感じられるかもしれない。1928年、台北帝国大学が設立されたとき、恩師である藤田豊八が文政学部長として赴任、前嶋も助手として一緒にやって来たのが台湾との縁の始まり。ところが、藤田が病死した後、人間関係の問題もあって大学を離れ、台南第一中学校へ転任する。失意の中、自らを慰めるかのように台南の街を歩き回り、この地の歴史研究に没頭した。大東氏は、そうした前嶋の台南散策に永井荷風『日和下駄』の影響を見出している。前嶋は台南へ来てからも佐藤春夫「女誡扇綺譚」の舞台を探し出しているように、もともと文学への関心が強い。「媽祖祭」(『前嶋信次著作選第三巻 〈華麗島〉台湾からの眺望』平凡社・東洋文庫、2000年、所収)という文章など幻想的で実に美しく、一読をお勧めしたい。


台南で「女誡扇綺譚」の舞台探しに熱中した人物としてはもう一人、新垣宏一がいる。高雄に生まれ、台北帝国大学に学んだ生粋の台湾育ちで、1937年から台南第二高等女学校で教鞭を執った。彼は積極的に作家活動を行っていたが、むしろ文学考証の方で本領を発揮したという。とりわけ「女誡扇綺譚」をめぐる考察が大きなきっかけとなっていたが、やがて台南の民俗へと関心を広げていった。皇民化運動が推進される時代背景の中で新垣が「女誡扇綺譚」をどのように捉えていたかについては、和泉司『日本統治期台湾と帝国の〈文壇〉──〈文学懸賞〉がつくる〈日本語文学〉』(ひつじ書房、2012年)で分析されている。


西川満が1940年に発表した「赤崁記」は、ある意味、「女誡扇綺譚」の向こうを張るような意気込みで書き上げられた作品。鄭氏政権末期のエピソードをもとにした歴史小説である。大東氏は、『国性爺合戦』以来の鄭成功というモチーフと、西川が愛好していた谷崎潤一郎の影響とを特徴として指摘している。西川の名前は日本文学史においての知名度こそ低いが、日本統治期の台北で自ら雑誌や書籍を刊行し、台湾文壇形成の立役者となった。日本統治期の台湾史を考える上でも逸することのできない人物である。

西川にはロマンティシズムへの嗜好が強い。彼は題材として台湾への愛着を示してはいたが、それが必ずしも台湾社会への内在的理解を伴ったものではないという批判を受けることになる。前嶋や新垣と共に「台南学派」の一人に数えられた國分直一は、西川の台湾への愛着に共感しつつも、それが唯美主義に陥りかねない点に警告を発した。台湾人の生活感情を理解する必要を感じていた國分はやがて雑誌『民俗台湾』に関わるようになる。國分は台南第一高等女学校の教諭として台南に住んでいた。その時の経験が、台湾史が先史時代以来積み重ねてきた重層性へ目を向けるきっかけとなっている。そうした成果は、例えば『壺を祀る村──台湾民俗誌』(法政大学出版局、1981年)などの著作に見ることができる。

庄司総一は少年時代を台南で過ごした。作家としての知名度はあまり高くないが、1940年に発表した小説『陳夫人』は台南の旧家を舞台として、「内台結婚」(日本人と台湾人の結婚)問題や植民地台湾の現実に直面した台湾知識人の苦悩など、台湾社会の現実を描き出そうとした意欲作で、当時は評判となった。


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一青妙さんとたまたま知り合い、「私の台南」に本の中で登場したことから、台南を訪れる日本人が一度行ってみたいと思うようになったマルやんのビンロウ屋さん。3000人近い日本人が既に訪問したらしいです。私もそのうちの一人です。

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ビンロウを買うわけでもなく、お店の商売に何の役にも立たない日本人観光客に対して、日本語も話せないのに一生懸命対応してくれるマルやんの人情味には本当に頭が下がります。

一青妙さんだけでなく、佐藤春夫の研究者達とも、たまたま知り合い、今では佐藤春夫の歩いた台南の場所・登場人物・時代背景等について、誰よりも詳しい人になっているマルやん。

「私は15の日本語しか知らないビンロウ屋のタダのオヤジさ」と何時も謙遜しているマルやんですが、その素晴らしい人情味に加え、広い知識と凄い記憶力を持った実は非常に聡明なおじさんなのです。年齢的には、私の方が少しオジサンのようですが、マルやんを尊敬しているし、日本人を歓迎してくれて感謝の気持ちで一杯です。