三越の前を通ると、入口の前で開店を待つお客さん達がいた。どうやら台湾のデパートの開店時間は午前11時のようである。日本は10時のような気がする。
台南駅に着いた。
喉が渇いたので飲み物を買う。
こいつにしました。黄金軽焙烏龍。看板を指さしてオーダーするが、砂糖をどうするのかとか、氷をどうするのかと、店員が色々と質問するのでややこしい。おおらかな台湾が、何故か突然細かくなる瞬間です。
別にこれを志向していたわけではないが、店員とのやり取りでこれに落ち着いた。「去糖、微氷」。砂糖なしで、氷は少し。この手のお店では、「無糖」と言わず、「去糖」と表現するんだと中国語の表現を学ぶ。
玉井行のバスは待ち時間が15分くらいであった。
バスは新化を経由して玉井に向かった。意外に遠くて、1時間半くらいかかる。町の地理はサッパリわからないが、小さな町なので適当に歩いても大丈夫そう。
とりあえず、バスが町に入った時に見えていた「市場」に歩いて向かう。
うわ~、あるある。マンゴだマンゴ。
ここではマンゴが大きな籠に「てんこ盛り」で売られている。これを買って一人で食べたら、マンゴの毒が回って、顔じゅうが腫れあがりそうです。
玉井で一番有名な種類の「愛文」の季節は過ぎたようだが、色んな種類のマンゴが見られた。
「凱特」
凱特に赤色があるんだ。「紅凱特」
「金煌」
小さくて緑色の「土マンゴ」に似た感じのマンゴがあった。「黒香」と呼ぶらしい。
おっ、初めて見た「慢愛文」。 わざと花を摘んで、果実が実る時期を遅らせた「愛文」。漢字を見ていると特急列車と普通列車の違いのようで面白い。
「王文」。これは素人目には愛文との違いが判らない。
玉井はマンゴで有名なだけあって、売られている果物のほとんどはマンゴですが、それでも少しは他の果物もあった。
マンゴは検疫の関係で日本に持ち帰れないが、パイナップルはOKらしい。今回は日本にお土産で持ち帰ろうか検討中。但し、残念ながら旬の時期は過ぎており、果物商をしている友人曰く、「今の時期のパイナップルは美味しくないぞ」らしいが。
ドラゴンフルーツは、果肉が白色のものと赤色のものがある。
台湾バナナ
手前の緑のものは、恐らく「アボガド」。日本で売られているものと違い「ヒョウタン」のような形。
市場でも「マンゴかき氷」が食べれます。
「タバニ―事件」の記念館を見に行く。
玉井にある製糖工場の跡地に記念館はある。書籍によると、この製糖工場は1913年に開業し、当時玉井に住む人の4割がこの工場で働いていたそうです。日本の植民地政策に従って繫栄した製糖業も斜陽産業となり、1992年には生産停止、工場閉鎖となっています。
あっ、蒋公(蒋介石)の銅像が取り壊されずにポツンと立っていました。
「タバニ事件」とは、「西来庵事件」とも呼ばれ、日本の植民地統治に反対する台湾人の武装蜂起事件です。
タバニとは、この地域の地名であるTABANIに起因しています。TABANIは、日本時代に似ている音の漢字を当て「玉井(たまい)」という地名に変わり、今の台湾では同じ漢字で中国語の発音の「玉井(イィジィン)」となりました。西来庵とは武装蜂起の首謀者であった余清芳が出入りしていた宗教団体の名前に起因します。
事件が発生した1915年(大正4年)は、日本の植民地統治20周年に当たり、台湾全土で第2回目の国勢調査が行われ人口が349万7,922人と判明した時代で、20年来で規模が最大且つ犠牲者数も最多の事件でしたが、事件の話はあまり知られていません。高砂族が武装蜂起した霧社事件は有名で、私も南投の霧社に行ったことはありますが、このタバニ事件については全く知りませんでした。
武装蜂起が起こった原因としては、
1.各種税金の負担が重かった事
2.日本人の傲慢で、地元民蔑視の態度
3.製糖会社の運営が農民の権益を犯した
4.山林の調査を実施し、農民私有の山林を没収した
5.日本人と台湾人の待遇に差別があった
事件の首謀者である余清芳。彼は台湾人で、元警察官。
余清芳が捕まった後で、日本の軍人と記念撮影をしています。不思議と緊張感はあまり感じられない写真です。
左の人力車に乗せられているのが余清芳。台南の監獄に送られるのを見送る人達。
暴動で検挙された人達が歩いて台南監獄に移送される光景。
台南監獄
廟である「北極殿」にも囚人が収容されたようです。
当時の死刑執行報告書
暴動で使用された武器
暴徒が持っていたお守り
後で台湾人の友人と話していて、この事件の首謀者については色んな意見があるようでした。首謀者は英雄でも何でもなくて自分が警察を首になった事が不満で、他の人も巻き込んで暴動を起こした。巻き込まれた人の中には、本当に立派な人達もいたようですが、そそのかされて参加した為に死刑になってしまった。私には判断できる知識はありませんが、大変勉強になりました。
マンゴ博物館
玉井で一番有名な「愛文マンゴ」は、1962年にアメリカの種類を玉井に導入したのが最初です。
玉井にも老街がありました。
玉井で一番有名なマンゴかき氷屋さん
ここのは、氷もマンゴ果汁を凍らせて削ったものに、マンゴを切って載せて、更にマンゴのアイスも載せ、マンゴ果汁もかけるという徹底ぶり。
期待度200%で登場。予想通りの素晴らしい外見でした。でも何故かあまり美味しくなかった。愛文マンゴの季節は過ぎているせいなのか、それとも何時も美味しくないのか、それとも私の舌がおかしいのか?????
いずれにしても期待が大きかった分だけ残念です。
台南に戻るバス。来るときは1時間半かかったが、帰りの運ちゃんは飛ばしたので1時間で戻れました。
今泊まっている「ハム家」さんへ入る路地。
市内に持ってからライフワーク再開。 ここも50のお店の一つです。松竹當歸鴨
當歸鴨は、漢方の味が強すぎる店もありますが、ここのは丁度良い感じで非常に美味しかったです。
ええっ、玉井で見て来たばかりでしたが、市内の西市場の隅にも同様の記念館がありました。
西市場を少し覗いてみました。日本統治時代に台南初の公設市場として誕生したもの。1905年に完成したものは台風で全壊し、1912年に鉄筋コンクリートで再建されたものが現在の市場らしい。
市場に一歩足を踏み入れると、そこは映画のセットのような世界で驚きました。でもここはセットでも何でもなくて、リアルな現役の市場なんです。凄い。
西市場にも50の一つがありました。福榮小吃店(阿瑞意麵)
保安路に来ました。何時も大人気のお店です。この日も一番の行列でした。ここも50の一つですが、前に食べたことがあるので、今回は並びません。
見つけました「保安宮米糕」。50の一つをゲットです。
とても美味しいです。日本語では中華オコワかな。
50のリストに入っているのは「矮仔成蝦仁飯」ですが、行ったことがあるので、対抗馬の集品の蝦ご飯を食べてみました。
チャーハンが「つゆだく」になった感じで割と美味しい。
マルやんのところに向かう。
到着。
昼間の儀式で16歳の若者が下をくぐっていたものは燃やされていた。
マルやんのところでマンゴを頂く。滅茶苦茶美味しい。やっぱり私が玉井で食べたやつは何だったのだろう。
私は変な日本のオジサンなので、彼らが食べていた弁当も撮らせてもらう。
こんな事をしながら、この日も終わりました。
台南駅に着いた。
喉が渇いたので飲み物を買う。
こいつにしました。黄金軽焙烏龍。看板を指さしてオーダーするが、砂糖をどうするのかとか、氷をどうするのかと、店員が色々と質問するのでややこしい。おおらかな台湾が、何故か突然細かくなる瞬間です。
別にこれを志向していたわけではないが、店員とのやり取りでこれに落ち着いた。「去糖、微氷」。砂糖なしで、氷は少し。この手のお店では、「無糖」と言わず、「去糖」と表現するんだと中国語の表現を学ぶ。
玉井行のバスは待ち時間が15分くらいであった。
バスは新化を経由して玉井に向かった。意外に遠くて、1時間半くらいかかる。町の地理はサッパリわからないが、小さな町なので適当に歩いても大丈夫そう。
とりあえず、バスが町に入った時に見えていた「市場」に歩いて向かう。
うわ~、あるある。マンゴだマンゴ。
ここではマンゴが大きな籠に「てんこ盛り」で売られている。これを買って一人で食べたら、マンゴの毒が回って、顔じゅうが腫れあがりそうです。
玉井で一番有名な種類の「愛文」の季節は過ぎたようだが、色んな種類のマンゴが見られた。
「凱特」
凱特に赤色があるんだ。「紅凱特」
「金煌」
小さくて緑色の「土マンゴ」に似た感じのマンゴがあった。「黒香」と呼ぶらしい。
おっ、初めて見た「慢愛文」。 わざと花を摘んで、果実が実る時期を遅らせた「愛文」。漢字を見ていると特急列車と普通列車の違いのようで面白い。
「王文」。これは素人目には愛文との違いが判らない。
玉井はマンゴで有名なだけあって、売られている果物のほとんどはマンゴですが、それでも少しは他の果物もあった。
マンゴは検疫の関係で日本に持ち帰れないが、パイナップルはOKらしい。今回は日本にお土産で持ち帰ろうか検討中。但し、残念ながら旬の時期は過ぎており、果物商をしている友人曰く、「今の時期のパイナップルは美味しくないぞ」らしいが。
ドラゴンフルーツは、果肉が白色のものと赤色のものがある。
台湾バナナ
手前の緑のものは、恐らく「アボガド」。日本で売られているものと違い「ヒョウタン」のような形。
市場でも「マンゴかき氷」が食べれます。
「タバニ―事件」の記念館を見に行く。
玉井にある製糖工場の跡地に記念館はある。書籍によると、この製糖工場は1913年に開業し、当時玉井に住む人の4割がこの工場で働いていたそうです。日本の植民地政策に従って繫栄した製糖業も斜陽産業となり、1992年には生産停止、工場閉鎖となっています。
あっ、蒋公(蒋介石)の銅像が取り壊されずにポツンと立っていました。
「タバニ事件」とは、「西来庵事件」とも呼ばれ、日本の植民地統治に反対する台湾人の武装蜂起事件です。
タバニとは、この地域の地名であるTABANIに起因しています。TABANIは、日本時代に似ている音の漢字を当て「玉井(たまい)」という地名に変わり、今の台湾では同じ漢字で中国語の発音の「玉井(イィジィン)」となりました。西来庵とは武装蜂起の首謀者であった余清芳が出入りしていた宗教団体の名前に起因します。
事件が発生した1915年(大正4年)は、日本の植民地統治20周年に当たり、台湾全土で第2回目の国勢調査が行われ人口が349万7,922人と判明した時代で、20年来で規模が最大且つ犠牲者数も最多の事件でしたが、事件の話はあまり知られていません。高砂族が武装蜂起した霧社事件は有名で、私も南投の霧社に行ったことはありますが、このタバニ事件については全く知りませんでした。
武装蜂起が起こった原因としては、
1.各種税金の負担が重かった事
2.日本人の傲慢で、地元民蔑視の態度
3.製糖会社の運営が農民の権益を犯した
4.山林の調査を実施し、農民私有の山林を没収した
5.日本人と台湾人の待遇に差別があった
事件の首謀者である余清芳。彼は台湾人で、元警察官。
余清芳が捕まった後で、日本の軍人と記念撮影をしています。不思議と緊張感はあまり感じられない写真です。
左の人力車に乗せられているのが余清芳。台南の監獄に送られるのを見送る人達。
暴動で検挙された人達が歩いて台南監獄に移送される光景。
台南監獄
廟である「北極殿」にも囚人が収容されたようです。
当時の死刑執行報告書
暴動で使用された武器
暴徒が持っていたお守り
後で台湾人の友人と話していて、この事件の首謀者については色んな意見があるようでした。首謀者は英雄でも何でもなくて自分が警察を首になった事が不満で、他の人も巻き込んで暴動を起こした。巻き込まれた人の中には、本当に立派な人達もいたようですが、そそのかされて参加した為に死刑になってしまった。私には判断できる知識はありませんが、大変勉強になりました。
マンゴ博物館
玉井で一番有名な「愛文マンゴ」は、1962年にアメリカの種類を玉井に導入したのが最初です。
玉井にも老街がありました。
玉井で一番有名なマンゴかき氷屋さん
ここのは、氷もマンゴ果汁を凍らせて削ったものに、マンゴを切って載せて、更にマンゴのアイスも載せ、マンゴ果汁もかけるという徹底ぶり。
期待度200%で登場。予想通りの素晴らしい外見でした。でも何故かあまり美味しくなかった。愛文マンゴの季節は過ぎているせいなのか、それとも何時も美味しくないのか、それとも私の舌がおかしいのか?????
いずれにしても期待が大きかった分だけ残念です。
台南に戻るバス。来るときは1時間半かかったが、帰りの運ちゃんは飛ばしたので1時間で戻れました。
今泊まっている「ハム家」さんへ入る路地。
市内に持ってからライフワーク再開。 ここも50のお店の一つです。松竹當歸鴨
當歸鴨は、漢方の味が強すぎる店もありますが、ここのは丁度良い感じで非常に美味しかったです。
ええっ、玉井で見て来たばかりでしたが、市内の西市場の隅にも同様の記念館がありました。
西市場を少し覗いてみました。日本統治時代に台南初の公設市場として誕生したもの。1905年に完成したものは台風で全壊し、1912年に鉄筋コンクリートで再建されたものが現在の市場らしい。
市場に一歩足を踏み入れると、そこは映画のセットのような世界で驚きました。でもここはセットでも何でもなくて、リアルな現役の市場なんです。凄い。
西市場にも50の一つがありました。福榮小吃店(阿瑞意麵)
保安路に来ました。何時も大人気のお店です。この日も一番の行列でした。ここも50の一つですが、前に食べたことがあるので、今回は並びません。
見つけました「保安宮米糕」。50の一つをゲットです。
とても美味しいです。日本語では中華オコワかな。
50のリストに入っているのは「矮仔成蝦仁飯」ですが、行ったことがあるので、対抗馬の集品の蝦ご飯を食べてみました。
チャーハンが「つゆだく」になった感じで割と美味しい。
マルやんのところに向かう。
到着。
昼間の儀式で16歳の若者が下をくぐっていたものは燃やされていた。
マルやんのところでマンゴを頂く。滅茶苦茶美味しい。やっぱり私が玉井で食べたやつは何だったのだろう。
私は変な日本のオジサンなので、彼らが食べていた弁当も撮らせてもらう。
こんな事をしながら、この日も終わりました。
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